2007年6月26日火曜日

無関心な人びと



無関心な人びと、ミケランジェロ・アントニオーニの太陽はひとりぼっちでMonica Vittiが見せる眼差しを俺は知っている。

フェリーニの甘い生活でのMarcello Mastroianniの後ろ背中。イタリア人作家モラーヴィアの代表作、無関心な人びとのミケーレの葛藤。どれもイタリアの陽気さと表裏一体の闇の部分、中産階級の退廃した様子を描いている。驚くべきはモラーヴィアはこれを20歳で書き上げているということ。そして1929年に出版されているということ。上の二つ同様、第二次世界大戦後だとすっかり思っていた。

ミケーレは自分と自分を取り巻く現実の間に溝を感じており、情熱を何に関しても傾けることができない。そしてそんな彼は徹底した無関心に落ち込んでいく。ミケーレの人間関係の在り方はヘミングウェイの日はまた昇るのジェイクのそれと類似性を感じさせる。皆他人に無関心と言う点で。日はまた昇るは1926年に書かれていること、ヘミングウェイがパリに渡っていることを、このモラーヴィアの作品が1929年ということと考え合わせれば、ヨーロッパが迎えた第一次大戦後の閉塞した状況がどんなものだったか見て取れる。殺戮を繰り返した後に価値基盤であった宗教は形骸化し、何をよりどころにすればいいか分からず、虚無感に打ちひしがれることとなった。そんな中で、人間関係は上辺だけの感情を欠いたものとなっていったのだろう。

このストーリーの問題は何か、それは信念の欠如、誠実であることの難しさである。ミケーレ以外はそんなこと考えもしないが、彼はそれを意識しており、それでいてそれができずにいる自分を嫌悪しているのである。物語ではミケーレは疎外感から怒りを表すことができないが、彼は人間はなんて自分勝手なんだと憤っている。これはミケーレの物語だが、表題は無関心な人びとである。つまり主人公一人の問題に帰するのでなく無関心な時代に突入した状況を描いているのである。遠いイタリアの20世紀初頭の時代状況にもかかわらずなぜこんなにもミケーレが身近に感じられるか考えていくと、要因は違えど、今の日本にも似た状況が存在するからではないか。そして俺は村上春樹がそうした時代状況を描いていると踏んでいる。

1つこの本を読んで頭に浮かんだことがある。コミットメント、デタッチメント、そしてコミュニケーションの可能性である。夢の工場ハリウッドとは違い、現実には饒舌に語りあい、なにもコミュニケーションを取っていないことは多い。河合隼雄は村上春樹との対談で理解しようと思ったら、イドを掘っていくしかないといっていたが、まさしくそのとおりである。イドを掘って、掘っていった先に壁抜けができるのである。そういう意味でコミュニケーションは決して簡単なものではないということだ。

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