2007年6月26日火曜日

痴人の愛


谷崎潤一郎は大好きな作家の一人である。新潮文庫から出ているものでは少将滋幹の母と盲目物語を残すのみである。谷崎には思想がないとよく言われるが、谷崎を読んでると思想を求めて読むことは、実利的なものに執着しすぎるきらいがあって、貧相なものに思えてくる。個人的に傑作と思うのは、短編では少年で、長編では痴人の愛であると思う。ここまで艶やかな文章を書けるのは谷崎しかいない。三島由紀夫の文体は推敲を重ねた人工的な美しさを放っているが、谷崎の文体は滑らかに流れるような美しさを誇っている。三島の文学には女の影があまりないように感じられるが、谷崎の文学では生き生きと女が描かれている。そうした谷崎文学の中でも一際際立っている女といえば、この痴人の愛のナオミなのである。個人的にこのナオミ、夏目漱石の三四郎の美禰子と日本文学上双璧を成すいい女である。

谷崎は矛盾したものをナオミに見ている。彼は本能の部分で裏切ってくれる女を一人占めしたいと考えているのである。譲治は君子とも言われるほどの保守的なサラリーマンである。理性の塊のような男であるがゆえに没頭するようなものを持っていなかった彼はこう思いつつナオミを育てていく

よく世間では「女が男を欺す」と云います。しかし私の経験によると、これは決して最初から「欺す」のではありません。最初は男が自ら進んで「欺される」のを喜ぶのです、惚れた女が出来て見ると、彼女のいうことが嘘であろうと真実であろうと、男の耳には総べて可愛い。ですから男は女に欺される積もりはない。却って女を欺してやっているのだと、そう考えて心の中で笑っています

我儘が過ぎ、嘘つきで不埒な最悪な娘はそれだからこそ、輝きを増すが、ナオミは譲治の想像をはるかに超えており笑っていられなくなり、まさに痴人へと一歩一歩引きずられるかのように進んでいく。この物語を読んで譲治を情けないと思うのはもっともである。しかし情けない男とそうでない男がいるとしたらまだ半分しかわかっていない。情けない男がいるのではなく男というものに程度の差こそあれ情けなさが存在するのである。

情けなさを節操なく見せる太宰治より虚勢を張り情けなさを見せようとしなかった三島を俺は支持するが、谷崎の描く情けなさはコミカルであり、愛くるしさに満ち溢れていて微笑ましい。しかし一歩進めて考えれば、譲治の自己犠牲的な振る舞いは意識よりももっと深い部分で、情に訴え、相手を動かそうとする利己的なものがあるのではないか。自分の情けなさを惜しげなく晒し、弱みを見せ、ナオミより低い立場に自分を進んで置くことで、関係を何とか続けていこうとする譲治。本人の知らないところで狡さもまた垣間見れないだろうか。何でナオミは譲治と縁を切らないないのだろう。これを考えながら読むとまた面白さが増す。

中韓に言われっぱなしの日本外交、今日も頑張るサラリーマン、しっかり尻に敷かれた亭主たち、今日もなんか違うと思いつつ男達は行く

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