2007年6月26日火曜日

ダンス・ダンス・ダンス



村上春樹は大好きな作家の一人であり、初めてコンプリートした作家でもある。俺が言うのもなんだが、小説の出来としては世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランドだと思うが、俺はダンス・ダンス・ダンスが一番好きだ。この最後の終わり方に納得はいかなく、どこかやり残した感はあるが、それでも、ダンス・ダンス・ダンスには心を震わせるものが確実に存在している。

自分のことは自分がやればいいし、他人のことは他人にやらせればいいと描いてきた村上春樹が、ここではそのデタッチメントからの息苦しさにと惑い、右往左往している。高度資本主義の中、何が正しいかなんかもう分からなく、友達もいない。仕事もしていない。女からは毎回宇宙人のように思われ、時間がくると出て行かれる。かつてのような心の震えもいまはなく、心は乾いている。何がいけないのか分からず、どうしたらいいのかもわからない。それでもステップを踏み続けていく。

いちばんの問題は僕が心の底から彼女を求めていなかったということだった。僕は彼女のことが好きだった。彼女と一緒にいるのが好きだった。彼女と2人でいると、僕は心地よい時間を送ることが出来た。優しい気持ちにもなれた。でも結局のところ、僕は彼女を求めていなかったのだ。彼女が去ってしまった三日ばかり後で、僕はそのことをはっきりと認識した。 ダンス・ダンス・ダンスより

優れた小説は時にハッと目を見開く驚きをもたらす。ここに彼の問題が凝縮されていて、この小説は問題の提示に優れている。だからこそ、その再生を納得行く形で読んでみたいと思うのである。ユミヨシさんととどまり、「ユミヨシさん、朝だ」で終わる、その終わりは穏やかな朝の光に包まれ希望を感じさせるのでいいと思う。ただこれこれこうだから、こうなるというのがなく、唐突に再生されてしまったように感じるのである。しかし、それでもこの小説は問題の提示だけで俺にとっては大切な小説なのである。

マルドロールの歌


折に触れて詩を読むことがある。バイロンもボードレールもリルケもブレイクも好きになれない。感傷的すぎたり、グジグジしていたり、神秘的過ぎたり、いずれも、俺が求めているものとはちょっと違った。甘い詩なんか読みたくない。気分が腐ってくる。

俺が好きなのは、ランボーの地獄の季節とこのロートレアモンのマルドロールの歌である。ランボーを読んだ後、心の中で、ランボー!ランボー!ランボー!と叫んでいたが、マルドロールの歌はそれを凌ぐかもしれない

有名な詩句、

<そしてなによりも、ミシンと蝙蝠傘との、解剖台の上での偶然の出会いのように、彼は美しい>

に代表的なデペイズマン(本来あるべき所から物、イメージを別の場所に移すことで生まれる驚異)の手法により、異質なものが偶然にも遭遇する美しさを詩にしているが、ロートレアモンの詩は一見アナーキーに言葉が配置されているように見えるが、不思議にも言葉の組み合わせから、生じるイメージに焦点を合わせて読むとイメージから生まれる不思議な美しさをもたらし、この言葉との組合わせはこれでなければならないと感じさせる。

そして彼の詩は一つ一つ言葉が選び抜かれたことでか、全体の詩句が非常にシャープに感じられる。絶望的に翻訳に頼らなければならず、前川訳に頼っているわけだが。そしてこのマルドロールは美しいだけではない。ランボーが霞むかのように思えるぐらい激烈なのである。ナイフでも持った青年が怒りをぶちまけている。そんなイメージだ。少年ジョルジュに対する想いや引き裂かれたことに対する社会への恨みが全編に漲っている。全ての人間的な価値、モラルは価値のないものに貶められて、悪が激しい感情の勢いにまかせて妖しく光輝く。上っ面の下に渦巻くドロドロした感情に驚愕しつつも、何度も繰り返し読ませる。

痴人の愛


谷崎潤一郎は大好きな作家の一人である。新潮文庫から出ているものでは少将滋幹の母と盲目物語を残すのみである。谷崎には思想がないとよく言われるが、谷崎を読んでると思想を求めて読むことは、実利的なものに執着しすぎるきらいがあって、貧相なものに思えてくる。個人的に傑作と思うのは、短編では少年で、長編では痴人の愛であると思う。ここまで艶やかな文章を書けるのは谷崎しかいない。三島由紀夫の文体は推敲を重ねた人工的な美しさを放っているが、谷崎の文体は滑らかに流れるような美しさを誇っている。三島の文学には女の影があまりないように感じられるが、谷崎の文学では生き生きと女が描かれている。そうした谷崎文学の中でも一際際立っている女といえば、この痴人の愛のナオミなのである。個人的にこのナオミ、夏目漱石の三四郎の美禰子と日本文学上双璧を成すいい女である。

谷崎は矛盾したものをナオミに見ている。彼は本能の部分で裏切ってくれる女を一人占めしたいと考えているのである。譲治は君子とも言われるほどの保守的なサラリーマンである。理性の塊のような男であるがゆえに没頭するようなものを持っていなかった彼はこう思いつつナオミを育てていく

よく世間では「女が男を欺す」と云います。しかし私の経験によると、これは決して最初から「欺す」のではありません。最初は男が自ら進んで「欺される」のを喜ぶのです、惚れた女が出来て見ると、彼女のいうことが嘘であろうと真実であろうと、男の耳には総べて可愛い。ですから男は女に欺される積もりはない。却って女を欺してやっているのだと、そう考えて心の中で笑っています

我儘が過ぎ、嘘つきで不埒な最悪な娘はそれだからこそ、輝きを増すが、ナオミは譲治の想像をはるかに超えており笑っていられなくなり、まさに痴人へと一歩一歩引きずられるかのように進んでいく。この物語を読んで譲治を情けないと思うのはもっともである。しかし情けない男とそうでない男がいるとしたらまだ半分しかわかっていない。情けない男がいるのではなく男というものに程度の差こそあれ情けなさが存在するのである。

情けなさを節操なく見せる太宰治より虚勢を張り情けなさを見せようとしなかった三島を俺は支持するが、谷崎の描く情けなさはコミカルであり、愛くるしさに満ち溢れていて微笑ましい。しかし一歩進めて考えれば、譲治の自己犠牲的な振る舞いは意識よりももっと深い部分で、情に訴え、相手を動かそうとする利己的なものがあるのではないか。自分の情けなさを惜しげなく晒し、弱みを見せ、ナオミより低い立場に自分を進んで置くことで、関係を何とか続けていこうとする譲治。本人の知らないところで狡さもまた垣間見れないだろうか。何でナオミは譲治と縁を切らないないのだろう。これを考えながら読むとまた面白さが増す。

中韓に言われっぱなしの日本外交、今日も頑張るサラリーマン、しっかり尻に敷かれた亭主たち、今日もなんか違うと思いつつ男達は行く

栄光と挫折

栄光と挫折

金銭とは我々人間にとっていかなるものなのだろうか。アンジェイ・ワイダ監督作
1974年ポーランド映画「約束の土地」を見終わるとそんなことを考えずにはいられない

舞台は19世紀末のポーランド工業都市ウッジ。ポーランド士族であるカルロにブリキの太鼓などにも出演したダニエル・オルブリフスキを迎え、繊維工場主の父を持つマックス、ユダヤ商人のモリツの三人が共同で親世代の工場から離れ、自らの工場を持つべく邁進していくこととなるが、果たして彼らは約束の土地を見つけられたのだろうか

アンジェイ・ワイダ監督といえば灰とダイヤモンドであり、大理石の男である。極めて政治性の強い香りを漂わせた作品をとることでおなじみである。そのワイダであるが今作にいたってはワイダらしくないテーマで映画を撮っている。新興ブルジョワの成り上がりの話である。しかし不思議といやらしさを感じさせない。 野望、名声、富、妬み、策略が渦巻いたどぎついエネルギーに満ち溢れた世界の中で、若者が自らも成り上がっていこうとするさまをどこか暖かいまなざしをもってワイダは描ききった。なお特筆に値するのは美術であり、ヴィスコンティのルードヴィッヒを髣髴とさせる屋敷の豪華絢爛な様や飾られている絵画、調度品にいたるまでため息の出るような美しさを放っておりこれだけでも酔いしれてくるというものである。

まず押えておきたいこととして、この映画にはポーランド人、ドイツ人、ユダヤ人と三つの民族がでてくるものの、それによる対立といった物を描いてはいない。民族ではなく金というものが階級という別の対立軸となるものを生み出しているということを改めて気付かせてくれるのである。ワイダはカルロ達3人を取り巻く資本家の世界を描くが、一方では終始食べていくことさえ難しく資本家の下で過酷な労働生活を強いられるものがいるということを路上にあふれた貧困者の映像、資本家は労働者を豚だとののしり、貧困に喘ぎ助けを求める者に対して死ねばいいとのカロルとの会話でのやり取り、資本家が少女を弄ぶことによるその父との血生臭い憎しみ合い、そして最後の労働者のストライキの映像といったものでしっかりと切り取ってみせる。

もう一つの見どころは新興なり上がりのカルロという男、そのものである。カルロは商才の持ち主で自らの工場建設といった野心に燃える男である。理知的な彼は感情を露わにするようなことはまずない。夢の実現というものに向け、馬車馬のように働き、常に事業のことに頭がいっている。資本家をうまく取り込み、女を虜とすることもまた夢の実現に向けた打算がしっかりと働いてのことなのである。まさしく赤と黒のジュリアン・ソレルを彷彿とさせるキャラクターであり、野心というものをまざまざと見せてくれる。

男であればだれでも一端の男となりたいと思うものではないだろうか。特にそれが若い頃であればなおさらそのように思う。その意味でカルロの貧困者に対する慈悲のない言葉など冷徹さを感じさえられる部分はあるのだが、どうしようもなく惹きつけられてしまうものを彼は備えているのである。彼はいわば19世紀末、急速に資本主義が進展していくなかで必然的に生み出された人々の欲望を象徴的に体現してみせた存在であったといえるのではないだろうか。そのカルロが、ルツィという女性の間に子供ができたことから夫の指図で工場に火を放たれ、無一文となる。

その後彼は旧世代のミューラーの娘と結婚することで実力者となっていくものの旧世代に取り囲まれていき、旧世代と同じ道を歩むことを案じさせて終わりを迎える。最初のシーンであどけなさを残し、希望、夢に満ち溢れた笑顔が最後では冷徹な無表情な顔で持って終えるものを見て、金銭というものが必然的に人間というものを変えてしまうということを見せ付けられた

Monica Vitti


無関心な人びと



無関心な人びと、ミケランジェロ・アントニオーニの太陽はひとりぼっちでMonica Vittiが見せる眼差しを俺は知っている。

フェリーニの甘い生活でのMarcello Mastroianniの後ろ背中。イタリア人作家モラーヴィアの代表作、無関心な人びとのミケーレの葛藤。どれもイタリアの陽気さと表裏一体の闇の部分、中産階級の退廃した様子を描いている。驚くべきはモラーヴィアはこれを20歳で書き上げているということ。そして1929年に出版されているということ。上の二つ同様、第二次世界大戦後だとすっかり思っていた。

ミケーレは自分と自分を取り巻く現実の間に溝を感じており、情熱を何に関しても傾けることができない。そしてそんな彼は徹底した無関心に落ち込んでいく。ミケーレの人間関係の在り方はヘミングウェイの日はまた昇るのジェイクのそれと類似性を感じさせる。皆他人に無関心と言う点で。日はまた昇るは1926年に書かれていること、ヘミングウェイがパリに渡っていることを、このモラーヴィアの作品が1929年ということと考え合わせれば、ヨーロッパが迎えた第一次大戦後の閉塞した状況がどんなものだったか見て取れる。殺戮を繰り返した後に価値基盤であった宗教は形骸化し、何をよりどころにすればいいか分からず、虚無感に打ちひしがれることとなった。そんな中で、人間関係は上辺だけの感情を欠いたものとなっていったのだろう。

このストーリーの問題は何か、それは信念の欠如、誠実であることの難しさである。ミケーレ以外はそんなこと考えもしないが、彼はそれを意識しており、それでいてそれができずにいる自分を嫌悪しているのである。物語ではミケーレは疎外感から怒りを表すことができないが、彼は人間はなんて自分勝手なんだと憤っている。これはミケーレの物語だが、表題は無関心な人びとである。つまり主人公一人の問題に帰するのでなく無関心な時代に突入した状況を描いているのである。遠いイタリアの20世紀初頭の時代状況にもかかわらずなぜこんなにもミケーレが身近に感じられるか考えていくと、要因は違えど、今の日本にも似た状況が存在するからではないか。そして俺は村上春樹がそうした時代状況を描いていると踏んでいる。

1つこの本を読んで頭に浮かんだことがある。コミットメント、デタッチメント、そしてコミュニケーションの可能性である。夢の工場ハリウッドとは違い、現実には饒舌に語りあい、なにもコミュニケーションを取っていないことは多い。河合隼雄は村上春樹との対談で理解しようと思ったら、イドを掘っていくしかないといっていたが、まさしくそのとおりである。イドを掘って、掘っていった先に壁抜けができるのである。そういう意味でコミュニケーションは決して簡単なものではないということだ。

Nirvana


高校時代のロックな少年も今では大人となり、ほとんど、ロックは聞かなくなっている。Kurtが死んで以来、ロックは閉塞感に包またように感じ、段々足が遠のいたのだろう。ただNirvana、kurtに関するモノは追いかけてしまう。そして最近特に聞きたくなり、狂ったようにヘビーローテーションしてしまうことがある。

物議はあるが、俺にとってNIRVANAは90年代に生まれたバンドの中で紛れもなNo1である。最高傑作と思うはIn Uteroである。次にBreach,Nevermindとなる。ただNevermindだっていい作品であることは間違いない。高校時代は単純に音のカッコよさに痺れまくったものだが、最近はちょっと聞き方が違う。In Uteroには感情が詰め込まれている。憂鬱、苛立ち、焦燥、怒りに満ち溢れた痛々しいアルバムである。そしてkartの声だけ聞いていても、これらの感情を感じ取ることは容易である。ここまで、こうした感情を表現してしまうことに驚いてしまう。そしてなにより今の俺はkartに共感してしまっているんだろう。

90年代シアトルで内省的な青年、Kurt kobanは純粋に音楽を楽しんでいた。彼の才能は忽ち知れ渡り、一躍ジェネレーションXの代弁者などと持ち上げられてしまい、社会に唾を吐いてきた男はNevermindで、社会に、音楽産業に迎合する形をとってしまうことになった。 ロックが社会に受け入れられず、反抗するものだとして、受け入れられることでロックでなくなってしまう皮肉、真摯にこれを考え続けた男、他に俺は知らない。最後にkurtはこう言っている。覚えておいてくれ。消え去るより、燃え尽きるほうがいいんだってことを。